雑雑雑記
No.238 2023/12/14 07:26
匿名さん0 あ+あ-
🌟12月14日は「忠臣蔵の日」
⭐️記念日の由来
1702年(元禄15年)12月14日(旧暦)に、赤穂浪士47人が江戸・本所松坂町の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げたことに由来します
⭐️赤穂事件
1701年(元禄14年)3月14日(旧暦)に、江戸城・松之大廊下で、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が、高家(こうけ)の吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ/よしなか)に斬りかかったことに端を発します
事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している最中であり、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、江戸幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易(かいえき:領地・屋敷の没収)、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じ、相手方の吉良には一切の咎めはありませんでした
浅野側のみ刑に処せられたことに浅野家家臣達は反発し、筆頭家老の大石内蔵助(おおいし くらのすけ)を中心に対応を協議しましたが、浅野家再興の道はなく、主君の仇討ちのために1702年(元禄15年)12月14日(旧暦)、大石以下47人(47士)は、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとりました
47士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹しました
⭐️47士か46士か?
足軽の寺坂吉右衛門信行を含む47士説と含まない46士説があります
47士説の論拠は吉良邸討ち入りの時に打ち立てた「浅野内匠家来口上書」に寺坂吉右衛門を含む47士の名があったことなどで、46士説の論拠は四大名家へお預けとなり切腹した人の数は46士だったことなどによります
⭐️切腹を免れた説
寺坂吉右衛門信行が切腹を免れた説には、
①大石内蔵助や吉田忠左衛門らは分限帳にも載らない足軽でありながら、討入に加わった吉右衛門を生かしてやりたかったとする説
②浅野本家などへの生き証人の役割りを担ったとする説
③足軽に助勢をかったと言われては武士の面目がたたないので逐電させた説などがあります
⭐️12月14日の記念日
「忠臣蔵の日(47士討ち入りの日)」「南極の日」「マダムシンコの日」「透明資産の日」などに制定されています
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